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玉生八幡大神社を訪問して            : 松山大学柔道部・柔實会

玉生八幡大神社を訪問して           

松山市住宅情報館会長日記 『玉生八幡大神社を訪問して』   柔實会会長二宮秀生

 昨年、亡くなられた松山大学柔道部昭和30年卒業の高市良史先輩が祭られている松前町の玉生八幡大神社を参拝した。神道に陶酔されたいた先輩のことだから靖国神社の軍神のごとく玉生八幡大神社で神様になられていると思う。高市家は代々玉生八幡大神社の宮司をされており柔実会(松山大学柔道部OB会)ではよく神道の話を聞かせて戴いていた。訪問して気付いたことだが高市家が守って来た玉生八幡大神社の歴史はなんと西暦300年代中哀天皇時代にさかのぼる。

 仲哀天皇の時代とは飛鳥時代になる前の古墳時代だと思うが、仲哀天皇の皇后(神功皇后)が朝鮮半島の新羅(しらぎ)への遠征途中、船をこの地に泊め湧き出るこの地の清泉に戦勝祈願をされたとのこと。帰途において再び戦勝報告の為に船を寄港し、この地に久斯美玉(くしみたま)をここに祭ったとされている。地元民たちはココに社殿を造営して久斯美玉宮(くしみたまぐう)と称して崇拝したと言う。

 飛鳥時代の歌人額田王が661年に道後にやってきて『熟田津(にきたつ)に、船(ふな)乗りせむと、月待てば、潮(しほ)もかなひぬ、今は漕(こ)ぎ出(い)でな』と歌っている時代です。当時は三津から湊町をへて道後まで船で河を登っていたことが分かる。道後まで堰もなく流れの緩やかな川だったことが分かる。慶雲4年707年に久斯美玉宮を日女宮(ひめみや)と改称したと記録してある。

 貞観元年859年海上交通の安全祈願のため宇佐八幡宮を日女宮に合祀して玉生八幡大神宮と改め玉生八幡大神社と改称した。と言うから古代から瀬戸内海は海上交通が盛んであったことも分かる。12世紀から16世紀にかけて昌農内玉生にあった荘園『玉生荘(たもうのしょう)』に勧請(かんじょう=守護神社)していた古社である。16世紀後半戦国時代も末期のころ、玉生八幡は松前城主加藤嘉明の崇敬厚く、嘉明による松前城より松山城への移転の決意は玉生八幡大神のお告げとされている。こんな歴史ある神社に高市先輩が関わっていたとは今まで知らなかった。誠に迂闊であった。改めて高市良史先輩のご冥福をお祈りしたい。